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デ・キリコ展

上野の東京都美術館へデ・キリコ展へ行ってきた。キリコは、20年くらい前に倉敷の大原美術館で原画を見たことがある。「ヘクトルとアンドロマケの別れ」という作品が展示されていた。


引用:「デ・キリコ展」図録から トロイアの前のヘクトルとアンドロマケ



それ以来、この神秘的で不穏な霊気を漂わせる表情のない特徴的なマヌカンが何を意味しているのか興味深かった。今回の展覧会でも、マヌカンシリーズの中のヘクトルとアンドロマケが登場する作品が何点か展示されていた。


初期の頃は、自画像や妻の肖像画、古典的手法を取り入れた人物画を多く描いていた。若い頃から神経衰弱気味だったキリコは、日常的に幻覚に悩まされていた。長く苦しい神経と腸の病気を患い、回復後にフィレンツェのサンタ・クローチェ広場のベンチに佇み、「秋の生あたたかく愛のない太陽が、建造物や噴水の大理石までもが、まるで病み上がりのように目に映った」という。午後の陽が沈む直前の光と長く伸びた影がそのような不思議な感覚に陥ったのであろう。その光景にインスピレーションを得て生まれた作品を「謎」というのだそうだ。「謎以外になにが愛せようか」という哲学者ニーチェの言葉を、キリコはこよなく愛していた。



第一次世界大戦が勃発して、1915年からキリコは兵士としてパリからフェッラーラへ移住する。イタリア軍に招集されフィレンツェの連隊に入隊し、駐屯地フェッラーラの繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満し、その麻薬効果がキリコの形而上絵画に影響をおよぼしたのではないかといわれる。


戦争中のフェッラーラ時代には、地方都市の店先にある埃まみれのショーウィンドウに何世紀もの間、どのように使うのかも忘れ去られていたであろうガラクタや古いゲットー(ユダヤ人街)からもインピレーションを得たようだ。


マヌカンシリーズは、この第一次世界大戦の時期と一致する。1914年の夏に戦争が勃発、それに伴う爆撃と戦果を逃げ惑う人々の姿が想像に難くない。この恐怖と不安に駆られる時代に現実から逃げることもできない無力感や疎外感が、人物の表情を無くしたのではないだろうか?


その時代に笑顔で笑っている幸せそうにしている人物像など描くことができるだろうか?現代でも、人間が想像を絶するいじめや家庭内暴力、職場でのセクハラ、パワハラなど、精神的に追い詰めれれた時など、その場から逃げることができない事情や環境だった場合、人間としての感情を無くすか死を選ぶかしかないのではないだろうか?


ヘクトルとアンドロマケは、ヘクトルがトロイの戦い出る前にアンドロマケと別れを、戦場へ赴くこととなり、まさに現実から逃げることができない状況で無表情に感情を無くすことしかなす術がなかったのかもしれない。ヘクトルは戦死し英雄になるが、夫の死後、取り残されたアンドロマケは複雑な人生を送ることとなるという話。


36歳のとき、ロシアのバレリーナ、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚し、42歳のとき、2番目の妻、ロシア人のイザベラ・パックスワー・ファーと出会い生涯一緒に暮らした。1978年にデ・キリコが亡くなった後も、妻のイザベラは1990年までここで暮らしていました。

「ヘクトルとアンドロマケ」は、一人取り残された妻、イザベラの人生を暗示していたのであろうか?


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美しく、輝く、輪を求めて。

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