アンドレアス・グルスキーを例にアートとしての写真を考えてみる。キュレーターが解説していることとは違う視点で考えてみた。国立新美術館でアンドレアス・グルスキー展が開催されていたとき、同じくアメリカン・ポップ・アート展も開催されていた。アンディ・ウォーホルの代表的なキャンベルスープをリピートしている作品がメインビジュアルとして使用されていた。グルスキーとウォーホルが同じ美術館で展示されていることになんとなく気になっていたのだが、やっと共通点に気が付いた。
ウォーホルは、大量消費社会の大衆性や身近なモノをリピートしてシルクスクリーンで生み出した。グルスキーの一部の作品にもリピートされているものがある。これは、ポップという概念とは違うかもしれないけれど、夥しいほどの羅列がウォーホルとは違う静寂性を感じさせる構成になっている。シルクスクリーンのざらついたリピートと、写真プリントのつるっとしたリピート。その質感の違いはあっても、リピートという手法に共通点を感じたのである。
ある写真家は、水平垂直が曲がっていてもそれを「真実として良しとする」と言う。アートとしての写真は、撮影後に作家のイメージ通りに絵を作り込んでいく作業を加える。カメラメーカー大国の日本人写真家の多くは、カメラの性能を最大限に発揮しなければならないようである。それにしてもこんなにカメラメーカーが多い国も世界中見渡しても珍しいのではないだろうか?
アンドレアス・グルスキー/大判カメラで撮影して、撮影後のレタッチなしではこれだけの水平垂直を維持することは難しい。
アンディ・ウォーホル/あの有名なキャンベルスープ。こちらは、一点のキャンベルスープの写真をリピートさせた版を作り、シルクスクリーンで印刷する。
それはさておき、前回に引き続き、これは写真かどうか?ということについて。グルスキーは、レタッチ、すなわちコンピューターによる画像処理を多用している。大判カメラで撮影したフィルムをスキャニングしてパーツを組み合せて、実際にはない風景を絵として完成度を高めていく作業をしている。真実を写すことを写真と言う人は、これを写真と認めるのかどうか? 10年以上前にローマで撮影したコンタックスの35mmフィルムカメラで、僕自身が撮ったもので実験してみた。
篠原英智/これは、フィルムカメラで建物を下から仰いで撮影した最初の画像。
この窓のある古い建物は、下から仰いで撮影しているので、パースがかかっている。それをあたかも真正面から見たような絵にしたかったので、コンピューターで水平垂直を整えた。グルスキーもこれをやっているようだ。そうでなければ、上記の例に挙げた作品は、カメラだけで、修正なしであれだけの水平素直を出すことは不可能である。これは、写真といえるのか?それともこんなものは写真じゃないといわれるのか?つまり、真実を写す写真ではなく、カメラという画材を使った絵画なのである。くしゃくしゃにした紙にタイトルをつけて、現代アートというくらいなのだから、アートは何をやってもいいのだと思う。
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