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素描No.007

Drawing

ある夏の日、北の大地の牧場へ行った。そこには、白馬が一頭、寂しそうな目をして佇んでいた。


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北国の大地に興味を持ち始めたのは、2年前のちょうど今頃、渋谷東急文化村で観たアンドリュー・ワイエス展からだった。荒涼とした大地が、ワイエスの絵筆にかかるとこんなにも魅力的なものになるとは思わなかった。


テーマは身近なところにあった。それから、自分のルーツを見つめ直す旅が始まった。仕事も環境も全てが変わりつつあり、内なる衝動が必然に感じられた。北の大地には、荒野というイメージにぴったりの風景がたくさんあった。なぜ、今、荒野に惹かれるのだろうか?安定ということにすごく不安を感じるからなのかもしれない。


このままでいいのだろうか?若さが怖いもの知らずだとしたら、歳を重ねるごとに経験値によってチャレンジしなくなっていく。それは、安定という名の怠惰なのではないだろうか?僕はその言葉が頭に浮かび上がったとき、恐ろしくなった。


「もっと、飛べ!もっと、はじけろ!」もうひとりの自分がそう言っている。「そんなリスクを追わなくてもいいじゃないか?」とすぐ言い訳したくなる。結局、何かに恐れているんだね。正直言って怖い!そんな小心者の自分を奮い立たせるために荒野なんてテーマを選んだはずだ。


日本の武士道、西洋の騎士道、そういう精神性を保つためには白馬という小道具がぴったり。カタチから入る僕には小道具が必要だった。


感情の起伏が激しい僕を白馬が優しい眼差しで見ていてくれた。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 12:36 | コメント (2)

素描No.006

Drawing

こつこつと描くこと、やっと6点目の作品です。


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札幌郊外で見つけた、トラクターを描いてみた。この素描シリーズは、仕事と違って、コンセプトだのプレゼン戦略だの考えなくていいのです。だから、描きたい時に描きたいものを描く。ただ、それだけ。でも、絵というのは潜在意識の表れなので、きっと心の奥底で何かがふつふつと芽生えているのでしょう?


それは、何なのかを考えてみると僕が10代の時に読んだ、五木寛之の「青年は荒野を目指す」という小説に影響を受けているのかもしれない。親のレールに敷かれて人生を歩むことに疑問を感じた青年は、本物のジャズプレーヤーを目指して、トランペットを片手に世界を旅する。その珍道中で出合った出来事は、平々凡々と日々を過ごす若者とは違って、お金では買えない多くのものを手入れることになる。


喜びもあれば、居たたまれない悲しみもあり、傷つくこともあったりする。人種や国境を超えると様々な価値観に出合う。そんな中で、多感な青年は人生の深みを増していき、音楽の表現に生かされていく。(ああ、また悪い癖で分析し始めている。職業病だね)


この素描シリーズは、荒野に無人化されたサイロだったり、廃墟だったり、荒々しい風景の中に開拓民の逞しさを感じ取ってもらえればと思い描き出した。いや、描いているうちに『自分にそう言い聞かせた』と言った方が正確かもしれない。若い時は、表現テクニックに走っていたけど、今は視覚的に飛び込んできたことは、人生というフィルターを通して感じ取ることができるようになってきた。


このトラクターを見て、まだまだこれからの人生、開拓していけると思えてきた。つまらない大人になんかなりたくない。いつまでも荒野を目指す青年でありたい。そんなことを想う毎日です。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 13:45 | コメント (2)

素描No.005

Drawing

久々に素描シリーズ。

昨年から、鉛筆画を描き始めた。仕事の合間に描いているので、それどころじゃなくなるとすっかりとご無沙汰してしまう。でも、こうやって白い紙に鉛筆を持つと無心になれる。


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一番最初に描いたのは、10年前に台風で崩壊したサイロの納屋だった。なんであんな絵を描いたのだろうと思い返してみた。あの頃、今の自分に満足いかなく何か自分の生き方を根本的に壊したいと思っていたような気がする。あれから、一年近くが経った。いろいろあった年だった。仕事もプライベートも人生の中で、転換期に来ているのかもしれない。


人生の折り返し地点もとってくに過ぎ去ったところで、このままではいけないと悶々としている状態が続いた。デザインって、何だろう?幸せって、何だろう?信頼って、何だろう?愛って、何だろう?お金って、何だろう?本当に僕はこの世の中で必要とされているのだろうか?何かを発信しているだろうか?表現者として、心地良さを提供しているだろうか?人に優しいだろうか?親孝行してきただろうか?


気がつくと、なんだか今までのスタイルを全部ぶち壊したくなっている自分がいた。今だから言えるけど、きっとこれから新しいことをやるための過去の清算なんだと思う。


自己分析をしてみると、崩壊した納屋をこれから再生させようとしている表れではないかと思う。きっと、過去に培ってきたものを一度破壊して、まったく別な物ではなく、その土台の上に何かをやろうとしているような気がする。


今年はやるぞっ!



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投稿者 hidetoshi shinohara : 22:28 | コメント (6)

素描No.004

Drawing

何事もなく日常が過ぎ去っていく。


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五木田さんの死から、2週間以上が経った。彼が、生と死の狭間を彷徨っていたとき、何かに突き動かされるように僕はこんな寂れた絵を描いていた。理由はわからない。休みの日になると自室に籠って机に向い、ステッドラーの鉛筆をカッターで削る。まるで、硯に墨を摩るように。絵を描き始める前の鉛筆を削るという短い時間が、心を落ち着かせ精神を集中させてくれる。


無意識のうちに生と死を意識していたのかもしれない。そういえば、五木田さんのお通夜から帰って来た日、深夜、寝ているとベッドの脇に誰かが立っている気配がした。僕は、霊感が強いわけでもないけれど、こんな体験は初めてだった。


お通夜から帰って来た時、僕は葬儀場からもらった「清め塩」を使わなかった。仏教では「清め塩」を排除しようという方向へ進んでいると聞く。死者を汚れたものとして塩で追い払うなんてことは僕にはできない。もしも、五木田さんがぼくの自宅まで付いて来たならそれでもいいと思った。


そんなことを思っていたので、本当に訪ねて来てくれたのかもしれない。『お見舞いに行く』と言っていて行かなかったのだから、『なんで、来なかったんだ?』と怨んで出て来ても何も言い返せない。『ごめん!』としか言えない。自分のことに浮かれていたのだから。でも、なぜかその感覚が恐くもなく、懐かしい感じがした。


今回の窓の絵は、潜在意識の中でそういうものが作用して表れてきたのだろうか?見る人によっては、暗くて嫌悪感を感じるかもしれない。今回、自分の誕生日で浮かれていたのに、家ではこんな絵を描いていたことがなんだか偶然ではないような気がした。喜びの裏には、悲しみがある。やはり、全ての偶然は必然なのだろうか?



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投稿者 hidetoshi shinohara : 10:21 | コメント (8)

素描No.003

Drawing

白い紙に鉛筆をシャカシャカ、カツカツ走らせる。


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何もない画面と向い合った時、いつも不安になる。「描けるのだろうか?」と。完璧でなくてもいいから、ある程度は満足のいくものでいい。


今回は、北国で見つけたサイロの脇にあった納屋の中。子供の頃、札幌市内にもこんな納屋がいっぱいあった。友達の農家の家で学校帰りに牧草に隠れて遊んだ。搾りたての牛乳を飲ませてもらった。給食の牛乳瓶の牛乳に慣れていたので、正直、濃過ぎておいしいとは思わなかった。でも、あれが本物の牛乳だったのである。子供の頃、丸まったあの牧草の奥の方へよじ上った。体中、草だらけになった。


あの丸まった牧草のことをロールベールサイレージというらしい。大きなトラクターで草を刈り取り、トラクターの後ろに牽引するロールベーラーと呼ばれる牧草を丸くするマシンで丸めて吐き出す。これが、なんと1個350kgもあるというのだから驚きだ。子供の頃、こんなところによじ登って、見つかっていたらひどく怒られたに違いない。


無心で鉛筆を走らせていると、子供の頃の情景が頭に浮かんだ。あの納屋のあの辺に隠れたり、奥の方には牧場のおにいさんが仰向けになってタバコを吹かし、煙の環を作ってくれたことを思い出した。


そこは、隠れ家的でとても居心地が良かった。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 18:42 | コメント (16)

素描No.002

Drawing

今日もまた鉛筆を削ることから始めた。


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なぜ描くのか?そんなことは理屈では到底理解できない。この衝動は何かと言えば「魂を揺さぶる何かがあるから」と、言ってしまえば聞こえはいいが、ただ単に描くことが楽しいからなのかもしれない。いずれにしろ、北国の荒涼とした風景に衝撃を受けたことは確かだ。


写真を仕上げていくのもいい。でも、写真では全てが写り込み、リアル過ぎてただなんとなく見過ごしてしまうような気がした。鉛筆だけの素描だと対象が浮かび上がってきて感情移入できる。「描くことは見ることである」と何度も自分に言い聞かせて。


今回描いた廃墟は、石狩湾沿いにある望来から厚田へ行く途中にあった。もう、誰も住んでいない牧場跡の一軒家。中を覗くと、ガラス窓は割れ天井は剥がれ落ち、荒れ放題の状態で野ざらしになっていた。


ここで、生活を営んでいた人達はどんな人だったんだろう。玄関先には、柴犬が吠えているような気がした。子供達が犬と一緒に走り回っている。家族が増えたのであろうか?左側の平屋の部分は増築されて継ぎ接ぎが残っている。


この家の手前は、北国の海。冬はブリザードが吹き付けて、厳しい生活を強いられているに違いない。鉛筆を画面に走らせていると、白い紙から段々と形が浮かび上がってくる。いろいろな物語を考えて夢中で描いていた。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 16:51 | コメント (18)

素描No.001

Drawing

北国の荒涼とした風景が頭から離れない。


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僕は、写真だけでは飽き足らず、休日の朝から鉛筆を握りしめていた。久々に沸き起こった、描くという作業。使い慣れたステッドラーの鉛筆を削ることから始めた。写真に満足できず、じっくりとディテールを観察してみることにした。


写真家でもないのにシャッターを押せば撮れてしまう。とまでは言わないが、それに近いことが素人にもできるようになった。そんな安易な気持ちで写真を撮った気になっている自分が許せない。もっともっと突き詰めなくては。この一枚の絵を完成させるには、ドラマチックに演出する光の加減が重要だ。「今度ここを訪れる時は、日の出か夕方だ」と心に誓った。


このサイロの向こう側が東なので、朝日が昇ると建物が逆光になる。それもいいかもしれないが、まずは夕方の順行で撮影するプランを立てる。きっと、夕日に染まった茜色の空が、この朽ちかけた窓ガラスに彩りを添えるに違いない。


写真を見ながら、ひとつひとつを描き込んでいくと、崩壊が始まった最初はどこから崩れていったのだろう?などと考えてしまう。人々がここの土地に住んでいれば、少しずつ修復しているはずなのに。やはり、人のいない建物は朽ちていくものなのだろうか?建物は、まるで生き物のようだ。


あらためて、「描く」という行為は「見る」ということでもあることに気がついた。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 15:42 | コメント (4)