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アートにおけるPhotographと写真

2013年9月

お気に入りの写真作家の作品を本人の目の前で感激していると、必ず彼らが口にする言葉がある。「こんなの写真じゃない」と写真業界で言われるのだそうだ。それが、一人や二人じゃなく、何人もの人がぼやく。ここ2年位、「写真って、なんだろう?」と、ずっと考え続けていた。やっと、その答えが見つかったような気がする。


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写真には、大きく分けて2つのタイプがある。ひとつは、真実を写すという写真。もうひとつは、絵画的要素の強いアートとしての写真。前者は、カメラメーカー大国日本が生んだ弊害でもあるような気がする。


カメラメーカーは、レンズの性能や描写性を売りにしたいがために写真家とタイアップして、いかに自社の製品の性能が良いかをアピールする。そこに、作為的な画像処理を施されるとどこまでが製品特性か曖昧になってしまうのである。東京には、メーカー系ギャラリーが点在し、自社のカメラを使用した作品を制作した写真作品を一般公募している。審査基準は、もちろん自社のカメラを使用したかどうか?極度の画像処理を施していないことなどが必須条件となる。


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F1レースのように自社の自動車技術がいかに優れているかを世界へ知らしめるプロモーションであるのと同じく、カメラメーカーも自社のカメラの性能がいかに優れているかということが発揮できている作品の発表の場であるのではないだろうか?どんなに独自性がある作品であってもそのカメラの特性を生かしていなければ、選考基準から外されるのである。そして、一般の人々はそこまで深読みせず、その作品が良いモノとして受け入れてしまう。


それに較べて、海外の多くのアート系写真作家は、もっと自由である。カメラは、あくまでも道具であり、画材の一部とでも思っているのではないかというくらい、カメラメーカーが嫌がる手法を取り入れている。日本のようにカメラメーカーが多い国も世界中みてもどこにもない。だから、カメラ性能を生かす写真や、メーカーの顔色を伺った作品を作る必要などない。


もともとは、Photographとは、Photo=光、Graph=図画なのであって、光画なのである。ところが、幕末に日本へカメラが渡ってきたときに絵画としての写真というよりもそこにある真実を写すと解釈して、写真と翻訳されたらしい。多くのアート系写真作家の方々は、「こんなの写真じゃない」と言われたら、「ええ、写真じゃありません。光画です」と答えれば良いのだと思う。


ここに掲載している作品は、僕がカメラを使用してマーク・ロスコやイブ・クラインにインスパイアーされ創作したもので、屁理屈かもしれないけれどGraphicphotoだと言うようにしている。


次回は、アンドレアス・グルスキー展で観てきた写真とは何か?と、バウハウスのモホリ・ナギが書いた「絵画・写真・映画」を読んだ感想を述べたいと思います。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 21:20

Adam Westonとの出会い

2013年9月

昨年5月のある日、高松のある日本人男性からニューヨーク出身で、抽象絵画とカッパの絵を描いているアーティストと会ってほしいと連絡があった。


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最初、あまり気乗りしなくて、会っても期待に応えられないかもしれないと伝えた。なぜなら、最近、作家には散々な目にあっているからだ。心底惚れ込む作家に出会うまで、企画展はしばらく休止しようと思っていたところだったから。その後、日本人女性から連絡があり、しぶしぶ会うことになった。その女性は、Adamさんの奥さんだった。


二人は、僕のオフィスに訪ねてきた。僕が、なぜ気乗りしなかったかというと、「いまどきカッパ?ダサッ!」僕は、ニューヨークの洗練されたかっこ良さが好きなのである。


二人に会ってみると、とても仲が良く幸せなオーラが漂っていた。Adamさんは、優しい笑顔で僕に接してくれた。もともとは、僕と同業者のグラフィックデザイナーだった。オフィスの蔵書を見て、国境を超えて同じ時代を生きてきたクリエイーター同士の話題で盛り上がった。英語と日本語のチャンポンで会話し、あっという間に2時間は過ぎただろうか?奥さんは、ちょっと置いてきぼりで可哀想だったけれど、僕が20代の頃からニューヨークに憧れた、現代作家、音楽の話、広告業界の話は尽きない。その後、40歳を過ぎてニューヨークへ行ったので、Adamさんの話の内容から、情景が浮かんだ。


この出会いから、ちょうど4ヶ月が経った。銀座で展覧会を開催すると通知が来たのでさっそく行ってみた。ステートメントが素晴らしかった。なぜカッパなのか?そこに答えがあった。彼のお父さんは、アーティストとして東京の銀座で活躍していたのだ。子供の頃、日本のお土産にカッパのお面や北斎の画集、日本の工芸品を買って来てくれたそうだ。幼少の頃、両親は離婚し、母親に連れられて世界を転々とする。その旅行先のポルトガルで、トラックに轢かれ意識不明の重体に陥ったそうだ。それ以来、成人するまで何度も大手術をする。そして、父親のマンハッタンと母親のメイン州のイーストポートを行ったり来たりの生活が始まった。この絵のスタイルとカッパは、Adamさんのアイデンティティーなのである。


僕は、アートというモノは、作家の心の投影だと信じている。だから、人柄が悪い人は作品にそのような波動が出る。彼のように愛情に満ちている人は、作品にもその波動が伝わってくるものである。このようなアートを部屋に飾ると、きっと、愛に満ちた空間になるに違いない。ここでいう愛とは、人を愛する、自分を愛する、自然を愛する、生命を愛することだ。


カッパは、彼の父親に対しての憧憬なのかもしれない。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 20:56 | コメント (0)

スタジオで練習

2013年9月

親友S から「ベースを買って、1人でスタジオ予約したので、良かったら来ないか?」と連絡があった。


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いつものごとく、頭を机に打ち付け、打ち出の小槌のごとく湯水のようにアイデアが出てくることを期待したり、腕を組み天を見上げアイデアが降りてくるのを待っていたり、それでもダメなときは、シャーロックホームズのようにオフィス内を行ったり来たり、歩くと脳が刺激されるということを実践してみたり...一向にアイデアが舞い降りて来ない。こうなったら、最後の手段、左指を刺激すれば右脳が刺激されるということを思い出し、スタジオへの誘いに乗ることにした。


「1時間だけだよ。忙しいんだから」と言うと、Sは「別に来なくてもいいよ。ベースの試し弾きのために1人でやろうと思っていたんだから」そんな言い方されたら、行かないわけにはいかない。来なくてもいいと言われれば行きたくなるのが人情というものだ。


やっぱり、思う存分アンプの音を出せるってのはいいね。フェンダーツインリバーブがフェンダーテレキャスターカスタムのサウンドにマッチして枯れた音を出してくれた。


久々の演奏は、めちゃくちゃ下手だったけれど、Sが写真を撮ってくれた。スタジオで練習中の写真なんて初めて撮った。練習中は、記録に残しておくということが頭にないのかもしれない。



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投稿者 hidetoshi shinohara : 18:47 | コメント (0)