<< 2015年8月             1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31          

青の静けさ

2010年9月

青い池が北海道の美瑛町にある。天候によって、水面の色が変わるようだけど、僕が行ったときは生憎の曇り空。それはそれで、青空を水面に映し込まないのでエメラルドグリーンに輝き美しかった。


100925_01.jpg


しばらくこの美しさに見とれていると、金の斧、銀の斧のイソップ童話の世界を思い出した。この池から、神が現れて「あなたの落とした斧は金の斧?」と聞かれて、思わず「ハイッ!」と言ってしまいそうだ。


正直なことがいかに大切なことか問いただした物語だけど、現代社会では情報過多になり、その情報がどこまで本当なのか、どこまで信じていいのかわからなくなることがある。マスコミの情報だって、視聴率をあげることを目的にすればちょっと誇張した報道になり、祭り上げられた人の言い分なんか聞いてあげない。


僕は、一年半位前からテレビをまったく見なくなった。それまでは、夜遅く家に帰ると、すぐテレビをつけた。毎朝、起きても、休日も家にいる間中、テレビをつけっぱなし。ところが、テレビを見なくなって不自由するかと言うと、何も不自由ではないんだなっ、これが!


そもそも、テレビで放映したことを知っていなければならないのだろうか?社会人の常識なのだろうか?日本国内の報道は正しいのだろうか?尖閣諸島の問題だって、中国の視点からは、報道していないじゃないか?しているかもしれないけど、少数だと思う。なぜなら、国民の感情を煽って視聴率をあげるのがマスコミの目的だから。喧嘩とか争いというものは、両方の言い分を聞いて初めてどちらが悪いか判断できるというもの。


賢者とは、両方の情報を集めて冷静に判断する。そう、情報とは中立な情報が入手できなければ意味がない。偏った報道は、テレビ局の一方的な情報でしかない。テレビがないと、タレントがぎゃーぎゃー喚き散らすこともないし、静かに音楽を聴いて本を読める。この青い池の前でそんなことを考えた。



★みなさんからのコメントをお待ちしております。

投稿者 hidetoshi shinohara : 22:43 | コメント (2)

何もないは、何かがある

2010年9月

子供の頃、故郷の北海道には何もなく、ただだだっ広くて退屈なところだと思っていた。都会に憧れ、世界を見てみたかった。老子のタオ(道)の言葉に「マイナスは大きなプラスをはらむ」とある。


100915_01.jpg


これは、帯広の風景。あてもなく車を走らせても、どこまでもどこまでも続く平で何もない風景。こんな退屈な風景が嫌いだったはずなのに、最近では妙に心に響く。


老子は言う。
突っ張って直立するものは折れやすい。
自分を曲げて譲る人は、かえって終わりまでやりとげる。
こづかれてあちこちするかに見える人は、自分なりの道を歩いている。
ぼろぼろになった古い物は、それ自体、新しくなる寸前にあるものだし、
窪んだ所は自然に水の満ちるところになるのだ。
物をほとんど持たない人は、持つ可能性に満ちているのに、
沢山に物を持った人は、ただ戸惑うばかり。


タオを身につけた人は、自我を押し付けないから、かえって目立つ存在になる。
自分は正しい正しいと主張しないから、かえって人に尊敬される。
自慢しないから、人に信頼されるし威張って見下さないから、人はその人をリーダーにしたがる。


タオを身につけた人は、争わないということだ。
どんな相手からも喧嘩をふっかけられない。
自分を曲げて譲る人は、かえって終わりまでやりとげる。
さらに老子は言う。
この古い戒めは真実だと。
こういう生き方の人が自分の人生をまっとうして、
あの静かなところへ帰るのだよ。
                           (タオ/老子 訳:加藤祥三)


僕は、この言葉を聞くたびに耳が痛い。でも、「あの静かなところ」とは、この風景のような自分の故郷なのかもしれない。



★みなさんからのコメントをお待ちしております。

投稿者 hidetoshi shinohara : 12:07 | コメント (0)